スタッフ紹介

舛田 賢弘

舛田 賢弘
TAKAHIRO MASUDA

ポジション INTI 梅田 Designer
毛髪診断士
血液型 B型
趣味 スポーツ、お酒
自分にキャッチ
コピーをつけると
とにかく明るい美容師
他のスタッフからの印象 ポジティブマン

幼少時代

広島県出身。二人の姉に続き、待ちに待った男の子ということで、両親と祖父母の期待を一身に背負い、自他共に認めるほど甘やかされて育ちました。ただ、ひたすらに元気で常に走り回っている落ち着きのない子供で、ズボンの膝は車のワッペンでベタベタに補強されていた記憶があります。
元気いっぱいな反面、風邪や扁桃腺炎、インフルエンザなどによくかかり、最高体温42度を体験したときは、人生で初めて頭が割れそうで号泣したのを覚えています。
小学生になっても元気が取り柄は変わらず、遊べる時間は常にサッカーやドッジボールなどして遊んでいました。小学生の時はクラスで一番足が速く、長距離走も短距離走も誰にも負けないと自信満々でしたが、1学年18人の超ド田舎小学校から、1学年100人の中学校に上がった瞬間、自分は井の中の蛙だったのだと世界の広さを知りました。(高校はマンモス校で足が速いなどと口にすることはなくなりました。)

父親の多趣味で、特にアウトドアなことが好きだったので、よく家族でキャンプやスキー、釣りなどにも出かけていました。
好奇心旺盛で、なんでもやってみたいという性格でしたので、勝てるはずもない父親をライバルと勘違いして挑戦していました。
たくさんの遊びがあった中で、僕の心を鷲掴みにいしたのがミニ四駆でした。放課後のサッカーが終わった後は家でミニ四駆を改造するという日々を3年近く続けて、ミニ四駆オタクと化していました。
一方で、姉が習っているからという理由で習い始めたピアノも、練習が嫌いすぎて1年持たずに辞めてしまいました。
このころから、好きなことにはとことん熱中し、興味のないことは全く頑張れないところは変わっていないようです。

学生時代

スポーツ大好き自信満々な小学生から中学に上がり、自分よりも足の速い同級生に初めて出会い、幼いながらに挫折を味わった私ですが、スポーツが大好きなことに変わりはありませんでした。
広島のド田舎中学校には、サッカー部もバスケ部もなく、小学生から憧れていた部活に入ることは出来なかったので、消去法で部活を決めることになってしまいました。そこで私が選んだのは、鬼コーチがおらず、坊主頭にもしなくて良く、仲の良い先輩がいるソフトテニス部でした。
特にテニスに興味があったわけでもなく、なんとなく始めた部活だったはずなのですが、これもしっかりと熱中し、中学生時代はソフトテニスにすべてを捧げました。
上手くなりたい一心で朝練集にも行き、土日も休みなく、お盆と正月以外はテニスをしていたような気がします。
中学三年の春、中学生時代をソフトテニスに捧げた私に大きな試練が訪れました。高校受験です。
本当に、全く勉強をしておらず、テスト前は一夜漬けという最低レベルの学力の私に、両親が提示した条件が「家から一番近い公立高校でしかソフトテニスを続けてはいけない。」という何とも過酷な条件でした。
家から一番近い公立高校。中の上の公立でしたが、周りにちょうどいい高校が少ないという理由で倍率二倍以上。絶望の二文字が頭をめぐっていました。
自己暗示が得意な私は、奇跡的に受験生ハイに突入でき、そこから半年間は勉強の鬼と化し、休みの日は一日8時間以上勉強するという、今では考えられない生活を送り、奇跡的に希望校に入学することができたのでした。

テニスがしてくて頑張って入った高校生活は、好奇心旺盛な私には誘惑の多すぎる世界でした。
もちろんテニスは続けましたが、バンドをしたり、応援団で副団長をしたり、このころから目立ちたがりな性格が少しずつでてきた様に思います。
それまで一切興味がなかったオシャレというものに触れあって、夢中になるのは一瞬でした。
オシャレに興味を持ち、服も買うようになったのですが、それと同時に似合う髪型の方にも興味が沸き始めたのが、明確に美容師になろうと思ったきっかけです。
ただただ一人暮らしがしてみたいという理由で(親には大阪でしっかり学びたいとお願いして)大阪のグラムール美容専門学校に通うことにしました。
美容学生時代は、それまでとは正反対で、どちらかというと真面目な生徒だったと思います。
中学や高校と違って、やっていることすべてが興味をそそり、学んでいるというより遊んでいるといった感覚で、学校に行きたくないと思ったことは一度もありませんでした。
美容学生時代の私は、美容師という仕事に夢と希望を抱き、自分も華々しい世界に飛び込むのだと確信していました。

修業時代

奇跡的にその当時、大阪最大手といわれる美容室に入社することができ、夢と希望に満ち溢れた二十歳の僕はの心は、入社3日で絶望に変わっていました。 今思えば完全に学生気分が抜けておらず、社会人という自覚がゼロのハッピー野郎が、大阪で一番厳しい美容室に入社して根性なく辞めてしまったという単純な話なのですが、美容師という仕事に華やかなイメージと期待を持ちすぎた私には軍隊にしか思えませんでした。

当時二十歳の私は、美容師という仕事に絶望し、入社1か月で店長に辞めますと伝え、後押ししてくれた友達とゴールデンウィークを満喫し、暗黒期に突入しました。 中途半端に自信があったせいで、なかなか自分の弱さを認めることができず、なりたかった美容師とはこんなものなのかと絶望し、また美容師になるかを本気で悩みました。 4か月ほどフリーターを経験し、ゆっくり考えた結果、もう一度美容師をやってみようと決意しました。

その時の気持ちは、まだ人の髪の毛を切ったこともないレベルで美容師という仕事を諦めて本当に良いのかという葛藤と、心配ながらに送り出し、支えてくれた両親に申し訳ないという罪悪感のようなものが半々くらいであったのを覚えています。 また美容師を続けようと思い、悩み位に悩んで決めた就職先は、最初に就職した大きな美容室とは真逆の三人だけの個人店で、そこから私の美容師人生が再スタートしました。

オーナーと先輩スタイリストと私という三人構成で、オーナーは教科書に近いきっちりとした技術、先輩スタイリストは天才肌のような独創的な技術というイメージで、両極端な二人の技術を間近で学び、取り入れることが出来たのは個人店で本当に良かったと思います。

そのお店は、ヘアケアなどの科学的な知識に対して、とても力を入れており、髪の毛の構造やカラーやパーマの薬剤に対する知識、特にヘアケアには特価しており、トリートメントについてはプロフェッショナルでした。

私の美容師としての知識量はこのお店に入ったからこそ得れたものだと思います。 しかし、いいことばかりではありませんでした。 今までスポーツなどで、他の人と競争することに慣れていた私が自分との闘いになった時に、思った以上に力を発揮できず、やる気のある時とない時のムラが大きくなってしまい、自分が思い描いていたスタイリストまでの道のりよりも、ずっと遠回りしてたどり着いてしまったように思います。

スタイリスト時代

アシスタント時代はスタイリストになることに頭がいっぱいで、美容師の幅を広げることよりテストに合格することばかり考えていたのですが、デビューすると少し気持ちと時間に余裕ができ、自分が元々興味のあったことや、特殊なカラー技術、撮影などにも幅広くチャレンジするようになりました。

私がスタイリストになったころ、ちょうど美容室のヘアスタイルカタログが大きく進化した時代でした。 そのこともあり、髪の毛の柔らかな動きの作り方や、最新のスタイルなどを自分でどん欲に学んでいき、美容師としての技術も大幅に上がったと思います。

自腹で一眼レフを買い、モデルさんを探し、がむしゃらに自分のスタイルを形にしていく作業にのめりこみました。 自らどん欲に学ぶことにより、アシスタント時代の三年半の練習の何倍もの知識と技術をものすごいスピードで習得出来たと思います。

三十歳を前に元々の夢でもあった独立を決意し、自分だけのお店で次のステップにチャレンジすることにしましいた。 お店のコンセプトは、ヘアケアとエイジングケアができる大人のサロンでした。

たくさんの思いを込めて、内装、椅子や機材、薬剤、などを一から選んでいくことは忘れられないいい経験になりました。 自分で全て選べるという最高の状況でたくさんの新しいメニューにチャレンジさせてもらいいました。 スタッフ三人でちょうど良いお店の広さを選んだのですが、求人に何度も失敗し、結局四年間ほぼ一人で営業することになってしまいました。

オープンして四年がたとうとしていたころ、コロナウイルスが世界を襲いました。 その影響でお店の売り上げも半分以下に落ち込み、このまま一人で続けていって大丈夫なんだろうかという不安がコロナウイルスの拡大と比例して大きくなっていきました。 そんな中、半分冗談の気持ちで美容師の求人サイトを見ていた時に、INTIを見つけました。

最初は、面白いコンセプトだなぁとぐらいにしか思っていなかったのですが、何か頭に引っ掛かり、時間があればINTIのホームページを見るようになっていました。 既にブログなどでINTIのとりこになっていた私は、お店をたたむと決めてすぐに、INTIの面接をお願いしました。

INTI時代

舛田 INTI時代

インティに入社が決まって2か月の渋谷研修が終わるまで、ありきたりな言葉ですが、本当に嵐のような3か月でした。
今まで学んでこなかったカット理論や知識を凄まじい速度で吸収させて頂き、パンクしそうな頭を整理しながら、ギリギリの体力で日々をすごし、もう一度修行時代の自分を思い出させてもらいました。
美容師を10年以上続けてきて、まだこんなにも学べる事が沢山あるということに、これからの美容師人生がより楽しみになった3か月でもありました。
そして、インティという美容室と素晴らしいスタッフに衝撃を受け、宮本さんという大きな存在に出会い、また衝撃を受けました。
宮本さんは今まで出会って来た美容師さんとは全く違う方で、美容師としても、人間性も、まだまだ学ばなければいけない事が沢山あるなと実感させて頂きました。

舛田 INTI時代

今までの美容師人生も、1人でも多くのお客様に笑顔になって頂きたいと思い過ごしてきましたが、インティに入社し沢山の方の髪の毛を切らせて頂いて、今まで以上にそう感じるようになりました。
お客様はみなさん、いろいろな悩みを持ち、期待してご来店くださっていると思います。その気持ちにお応えできるよう、来て良かったと言っていただける美容師になれるよう、インティで進化していきたいと思います。

INTI report - 舛田 賢弘

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