スタッフ紹介

和久井 博

和久井 博
HIROSHI WAKUI

ポジション INTI 新宿
毛髪診断士
血液型 A型
趣味 スノーボード、DIY
自分の悩み M字、いろいろな事に興味を持ちすぎる
自分にキャッチ
コピーをつけると
スタイリングの魔術師に憧れてる人
他のスタッフからの印象 年齢不詳な人

幼少時代

1979年に群馬県前橋市に3男として産まれました。
僕が生まれ育った近所には古墳がとても多くあり、古墳といってもドラえもんにでてくる裏山みたいなもので、毎日古墳で木登りをしたり、秘密基地を作ったり、探検をして遊んでいました。
小学校に入学して初めての夏休みを楽しみにしていたのですが、なんと夏休みに入る日に腎盂腎炎という病気になってしまい、約1ヶ月入院する事になってしまい、退院した時には夏休みの残り日数学生ほとんどなくなってしまい、とても悲しかった事を覚えています。
兄の影響と仲の良い友達の影響で小2からバスケットのチームに入りました。
とても熱心な監督だったので、月曜から土曜日までは学校が終わってから19時過ぎまで練習。日曜日はほとんど練習試合や大会などの日々でした。
バスケットはとても楽しかったのですが、僕は特別に運動神経が良かったわけでもなく、同級生に比べると身長も小さく少し控えめな性格だったので、僕はあまり活躍はできずに劣等感を感じていました。
チームは群馬県の中では1位2位を争うようなとても強いチームだったので、関東大会にも出場し、神奈川のチームと対戦しましたが、小学生の頃の身長の成長率はえげつなく、神奈川の選手の中には大人が混ざっているのかというような選手がいて、ダンクシュートなどをされてボロボロに敗退してしまいました。
小学生の時はバスケットばかりの生活だったので、テレビのドラゴンボールは見れないし、ゲームもそんなにはできないなど、何もしていない友達をとても羨ましく感じてしまい、控えめな性格なのに見栄っ張りだったので小学校を卒業するまではバスケットを続けようと決め、小学校卒業と同時にバスケットも辞めてしまいました。

学生時代

中学高校の頃は、洋服やヘアースタイルなどに興味を持つようになり、毎日友達と遊んでばかりいました。
16歳の時には学校には内緒でバイクの免許をとってYAMAHAのSR400に乗っていました。リーバイスの501XXのヴィンテージなど何十万もする様な古着やレッドウィングのブーツ、シルバーアクセサリーにハマってしまい欲しいものが沢山あったので、勉強よりもアルバイトを頑張ってしまい、おもしろいようにみるみる成績は落ちていき、ついには高校も中退してしまいました。 高校を辞めて建設業の仕事についたのですが屋外で仕事をするため、冬は寒く夏は暑く、なんとか室内で働ける仕事でしかもカッコいい仕事はないかと考えていた時に、たまたま美容師さんと知り合い、これだと思いました!
この頃の美容学校は中卒でも入れて、しかも1年間のみでした。
もともと手先が器用だったのか、面白いと思った事には集中できる性格だったので、美容学校の頃は実技のテストが不合格になった事は一度もありませんでした。アルバイトも頑張っていて、学校が終わるギリギリくらいからシフトが入っており、学校の成績が悪いと居残りをさせられてしまうので、成績を落とさないように必死で頑張っていました。

修業時代

19歳ー群馬県の美容院に就職

その当時はインターネットなどほとんど普及していなく、どこの美容院で働いたら良いのかもわからなかったのですが、知り合いの美容師さんたちに、地元ではうまいと評判の店を教えてもらい、まずは自分の髪を切ってもらおうと予約をし、オーナーにカットをしてもらった最後に、ここで働きたいと言ったら採用していただけました。
今思えば自分が頑張ればよかっただけなのですが、働いてみると先輩たちは練習しない、技術もちょっとだけ教えてもらい、あとはお客さんに入って馴れていってというような、自分が想像していたことと何かが違うと感じるようになってしまい、一生続けていくのにこのままでいいのかと悩んでいました。

20歳ー東京進出を決意
美容師を続けていくなら、東京に出て修行してこよう!でも、どこの美容院に入社したらいいのかもわからないし、そもそも雇って貰えるかもわからない。しかし、この頃の行動力は今でも良かったと思います。
雑誌やヘアメイクの仕事もしたいと思ったので、タレントさんやモデルさんが多く通っている美容院だったら間違いないだろうと思い、ヘアーディメンションというサロンに履歴書を送りました。
面接の結果、採用をしていただき、表参道での美容師人生のスタートをしました。

この時にINTI代表の宮本氏と出会いました。
宮本氏は僕よりも1ヶ月入社が早かったのですが、中途採用は皆同期となりました。
毎日が鬼のように忙しく、1店舗の1日の来客人数は300人を超え、1ヶ月の売り上げが500万円を超える先輩が沢山いて、中には1000万円を超える先輩もいました。
同期や先輩が毎日、当たり前のように営業時間外の早朝から深夜まで練習している環境の中で、自分も練習して成長していくのが楽しくなっていました。

スタイリスト時代

24歳ースタイリストデビュー
スタイリストになってみると、今までアシスタントとして受けていたプレッシャーとは全く違うプレッシャーがかかってくる。
1人のお客様を担当するだけでヘトヘトになり、先輩たちのすごさを痛感する。
この頃は雑誌(Can Cam等)やテレビ(うたばん、報道ステーション等)のヘアメイクも担当させていただき、ヘアメイクとサロンワークの両立をしていました。
26歳ー先輩の独立に伴いオープニングスタッフに
先輩が独立するときに一緒にやらないかと言っていただき、オープニングスタッフとして参加する。
店を立ち上げるという貴重な経験をさせていただき、とても勉強になったことを覚えています。
新しく店を作っていくという大変さと共に、徐々に自分でも店を持ちたいと考えるようになる。
この頃は雑誌(Ray、ViVi、S-cawaii、Pinky、ar、ヘアカタログ等)雑誌のヘアメイクとサロンワークの両立をしていました。

28歳ー同期と独立を決意

東京で最初に働いていた店の同期と麻布十番で独立をしました。
前を走ってくれていた先輩がいなくなり、自分に何ができるのかを考え、全てが自分に跳ね返ってくるという新たなプレッシャーが増えました。
2年後に六本木に2号店を出店。
この頃はテレビ(笑っていいとも!、スペースシャワーTV、ミュージックビデオ等)のヘアメイク、シャンプー等の商品開発とサロンワークをしていました。

32歳ー自分の地元にも店を持ちたい

地元の群馬にも店を出したいと思うようになっていたところに、関東東北大震災がおこる。
より一層地元への思いが強くなり、群馬に出店。
東京と群馬での2重生活が始まる。
しかし、お客様の生活環境が全く違うということに気づかされる。
生活環境が変われば、提案するヘアスタイルも変えなければいけない。最新のヘアスタイルを追い求めてばかりいては満足していただけない。基本となる髪のまとまり、艶を重視するなかで、時代に合わせたスタイルを提案するようになる。
一人一人のお客様を大切にするためにマンツーマンでの施術を始めました。

39歳ー宮本氏と再会

ヘアーディメンションで働いていたスタッフが同窓会を開いてくれました。
超有名美容師の先輩や同期たちとも話をしている中、宮本氏との会話が、僕の中でとても衝撃的でした。
内容はメンズ専用の薄毛専門店を出店するとのことでした。
世の中はインスタなどの映えブーム。
写真の加工技術も進み、髪色も自由に加工できるようになり、周りの美容師達はカット技術を向上させるよりも、必死にインスタでの宣伝ばかりしており、自分がやりたいことは何だろうと自問している時期でしたのでとても感銘を受けました。

INTI時代

41歳でINTIに入社
今までは女性をターゲットにしたサロンで働いていたため、INTIに入社して最初は薄毛に悩む男性をターゲットにしている事に戸惑うことも多くありました。
覚える事も沢山あり、男性のヘアデザインの勉強も毎日人形の髪をカットして・・・
まるで20歳の時に田舎から東京に出てきたときのように勉強をしまくりました。
INTIはほとんどのスタッフが、かなり経験を積んできたヘアデザイナーばかりなのですが、デザイナー全員が美容師になりたての頃のように勉強を続けている事が、何よりも強みであると思います。
お客様を担当させていただいている中で、施術が終わった後もチラチラと鏡を見ているお客様がいました。
もっと直して欲しいところがあるのかと思い、「気になる所はございますか?」と声をかけたら
「ついつい自分の髪に見とれてしまって・・・・ありがとうございました」
と返ってきました。
髪に対してコンプレックスのある方が僕のカット技術で、こんなにも表情が明るくなって頂けるのかと思い、この言葉にグッとくるものがあり、本当に勉強をしてきて良かったと思いました。
僕は人見知りではないですが、特に話術に長けている訳でもありません。
ですが、仕事に関しては誰よりもお客様に向き合えるようにと思い、お客様の家でのヘアセットがカッコ良くなるように、髪の乾かしかたやスタイリング剤の付け方を考え、アドバイスをさせていただいています。
ありきたりな言葉になってしまうかもしれないのですが、1人でも多くのお客様に喜んでいただき、ヘアデザインで人生を変えてあげられるようにずっと勉強をし続けていきます。 最後までお読みいただいてありがとうございました。

INTI report - 和久井 博

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