- 宮本 洋平
- 角田 英明
- 佐藤 真吾
- 日高 裕子
- 田中 慎吾
- 中村 朱里
- 小笠原 ゆきこ
- 大島 あかり
- 河津 典全
- 堀本 俊治
- 居石 郁佳
- 阿具根 明信
- 和久井 博
- 関根 雄基
- 舛田 賢弘
- 山口 隼輔
- 阿部 由菜
- 貴田 沙知
- 倉林 駿吉
- 松田 恵示
- 山本 蒼太
- 原田 享汰
- 小澤 ゆかり
- 佐野 友美
- 加賀谷 信貴
- 山下 真依
- 大貫 郁斗
- 荒川 拓也
- 中村 敦夫
- 児嶋 正子
スタッフ紹介
荒川 拓也

荒川拓也
TAKUYA ARAKAWA
ポジション | 薄毛Designer 毛髪診断士 |
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血液型 | O型 |
趣味 | 子供と遊ぶ、ドライブ |
自分の悩み | M字 |
自分にキャッチ
コピーをつけると |
意外にお茶目 |
他のスタッフからの印象 | 真面目で丁寧 |
幼少時代

岐阜県大垣市にて長男として出生しました。 その後、父親の仕事の都合から名古屋へと移り育ちました。
幼児の頃、どれだけ教えても全くハイハイをせず、移動は横向きになってコロコロ転がっていたそうです。
幼少時代は体が弱く、両親には苦労や心配をかけました。3歳の時に耳の手術、肺炎、13歳までは腎臓の病気で入院したり通院したりしていました。 入院中は、顔や身体が浮腫んでたり、当時の私は当然ベッドでじっとなんてしていられず、病棟の廊下でミニ四駆を走らせたりして遊んだりしていました。子供部屋が空いてなく、私だけ大人6人部屋だったのですが、その中の一人の女性の方が親のように構ってくれたのを覚えています。両親が帰る際、病棟から車が見えなくなるまで泣きながら見てました。でも親がお見舞いに来てくれた時は親に伝えられませんでした。入院生活が終わったのは、確か年長時でしたので、イベント等にもあまり参加できなかった記憶があります。
小学生に上がり、活動的になる反面、物を作ったり絵を描いたりするのも得意でした。 家の目の前に土木現場があり、そこから物を取ってきては、幼馴染みたちと基地を作ったりしていました。
サッカーにも夢中になり、幼馴染みたちに声をかけサッカーをしていましたが、幼馴染みたちも私のサッカー熱についてこられなくなり、室内でゲームしたりして過ごす中、私は一人ボールを蹴っていました。また、毎週のようにサッカー観戦に連れて行ってもらい、一番前で大きなフラッグを振ったり、当時の選手からサイン色紙が自宅に送られて来たりした思い出があります。
サッカーバカと言われていた頃、地元のサッカーチームからオファーをいただきました。しかし、なぜか私は同時期に他の友人たちから誘われたソフトボールチームへ入団しました。チームでは遊撃手、クリーンアップを任されるようになり、大会MVPに輝かせていただき選抜チームにも選ばれとても嬉しかったです。サッカーにもソフトボールにも共通していたのは、私が声を出しチームを鼓舞する役割でした。
学生時代

メインのサッカーでは、中学校のサッカー部では愛知県1位と周りからも言われる成績を残し、一番の思い出はクラブチーム参加型の大会で、中学校のサッカー部が3位になり、当時新聞にも掲載していただきとても素敵な思い出になりました。また、気合いを入れろと私を含めた数人が先生に3ミリの坊主にされました。その翌日以降、学校中のほとんどの男子が坊主になり、『第一次坊主革命』が起きたのは、とても面白く良い思い出です。
高校は、サッカーで痛めた腰の影響や将来的なことも考え、工業高校へと進学しました。 しかし、またここでFCフェルボール愛知からオファーをいただきました。諦められなかった私は入団希望でしたが、家庭の都合で入団は叶いませんでした。
工業高校を卒業したら、車関係の仕事に就くつもりでした。しかし、サッカーを失った私は路頭に迷い一年制のヘアメイクアップアーティストの専門学校へ進みました。しかし、自分には向いていないと早々に辞めてしまい、何をしていいのかわからなくなってしまいました。 おしゃれや髪型にもより興味が出てきた頃、とある求人広告を見つけました。若く世間知らずだった私は、『床履きするだけで給料が貰えるの⁉︎』と思ったあの日から美容師人生がスタートしました。
修行時代

通信制の美容専門学校とサロンワークの生活が始まり、毎日朝早く出勤、営業後は練習の毎日でした。上下関係に厳しい会社で、2桁いた同期は気付けば3人になっていました。当時若く負けず嫌いだった私は、全店総合で上位になることが増え、スタイリストとアシスタントの1位は、毎月社長に焼肉に連れて行ってもらえたり、その後アシスタントリーダーも経験しました。
スタイリスト時代

スタイリスト=カットが上手い人に学ぶと決め、知人に、カットを売りにしているオーナーさんを紹介してもらいました。カットスピードが早く衝撃的でした。その方からカットを学び、スタイリストとして初めてカットさせていただいた男性のお客様の時は、帰られた後とても疲れたのを覚えています。同時に、スタイリストとしての責任の重さを感じた瞬間でした。
徐々に指名してくださるお客様が増え、優しいお客様に恵まれ、へッドスパも磨きたくなりEraL認定キュアリスト、SHISEIDO認定スパニストの各ディプロマも取得しました。 30歳でオーナー(店長)がほぼ不在店舗の副店長に任命されました。一番スタッフ人数が多い店舗をうまくまとめきれなかったのにも関わらず、助けてくれたり慕ってくれたスタッフには、今も感謝しかありません。
INTI時代
代表宮本とお会いさせていただいた際、圧倒的オーラを感じました。INTIのコンセプト、真っ直ぐな代表宮本の言葉に感銘されました。
入社させていただいてからは、本当に全てが驚きの連続でした。カット技術はもちろん、営業面でのスタッフのレベルの高さ、みんなが同じ方向を向き、細かな部分にまで行き届いた接客。私の想像を遥かに超えてました。こんなプロフェッショナル集団の方々と私もINTIの一員としてお仕事ができるのかと、不安と楽しみな気持ちが入り混じりました。正直不安な気持ちが多くありましたが、『ヘアデザインで人生を変える』というINTIのコンセプトと共に『これからの新しい人生も変わる』と確信しました。
改めてこの仕事の素晴らしさと誇りを感じ、INTIは私の美容師人生最後の場所だと思いました。 INTIがあっての私、周りのスタッフの方々やお客様があっての私、それがあって初めて自分が活かされているという謙虚な気持ちを忘れず、精進させていただけたらと思います。