スタッフ紹介

倉林 駿吉

倉林 駿吉
SHUNKICHI
KURABAYASHI

ポジション 薄毛Designer
毛髪診断士
血液型 A型
趣味 ゴルフ、ドライブ
自分にキャッチ
コピーをつけると
職人気質な、優しい男
他のスタッフからの印象 温厚で明るい

幼少時代

私は群馬県高崎市で、父・母・2歳上の姉との4人家族の中で育ちました。
名前の「駿吉」は、両親が当時好きだった映画『優駿 ORACION』から「駿」の字を取り、語呂や画数のバランスを考えてつけてくれたそうです。

両親はともに教育関係の仕事に携わっており、特に母はとても厳しいタイプ。
姉も私もよく叱られていましたが、その中にはしっかりと愛情があり、今思えば私たちを「一人の人間」として対等に向き合ってくれていたのだと感じます。

姉の影響でピアノを習い始めたものの、じっとしているのが苦手だった私は、教室に行くフリをして友達と公園へ。
案の定、母に見つかり、私のピアノ人生はたった1ヶ月で幕を下ろしました。

小学校に入ると、「人を笑わせるのが好き」な性格に拍車がかかり、ムードメーカー的な存在になっていました。
担任の先生が変わっても、通知表には毎年のように「明るく元気、だけど落ち着きがない」と書かれていました。

運動が得意で、マラソン大会や短距離走では毎年上位に入っていました。
そんな私が憧れたのはサッカー。
サッカー日本代表がW杯初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」に感動し、「サッカーをやりたい!」と母に頼み込みました。
返ってきた返事は、「野球ならいいよ。小学校には野球チームしかないし、サッカーは隣の小学校だから送り迎えが面倒」というもの。

野人・岡野に憧れ、サッカーボールを追いかけるはずだった私は、気づけばバットを振る日々。
すっかり野球少年になっていました(笑)。

そんな私が入った少年野球チームは、なかなかハードな環境でした。
土日も朝から夕方まで、練習や試合がびっしり。上下関係も厳しく、先輩には「さん」付け。
試合に出られない日は、一日中球拾いに励むこともありました。
それでもその中で、礼儀やチームワークの大切さ、そして勝ち負けにかける本気の想いを学ぶことができました。

一方で、もうひとつ夢中になっていたのがプロレス。
深夜の放送をビデオに録画しては何度も見返し、友達とプロレスごっこをするのが日課に。
当時の夢は、野球選手ではなく「プロレスラー」でした!

プロレス雑誌に「入団テストではブリッジが必須」と書いてあるのを読んでからは、毎晩寝る前に黙々とブリッジの練習をしていました。
今思えば、そのひたむきさが少しだけ、誇らしく思えます。(笑)

学生時代

中学に進学してからは、性別を問わずたくさんの友達ができ、毎日がにぎやかで楽しい日々でした。
念願だったサッカー部にも入部。
弱小チームでしたが、仲間と夢中でボールを追いかけたあの時間は、今でもかけがえのない宝物です。

このころもプロレスへの熱は冷めることなくありましたが、
「プロレスラーになりたい」という夢は、少しずつ現実から遠ざかっていきました。
(ちなみに、毎晩やっていたブリッジも気づけばやらなくなっていました...笑)

高校に入ると、勉強はそっちのけで遊びモードが加速。
寝ている時間以外はほとんど友達と過ごしていて、遊び、遊び、遊び...とにかく毎日を楽しむことに全力でした。
誇らしい話ではありませんが、自分でもびっくりするくらい遊んでました。今となれば、もはやちょっと自慢です(笑)。

そんな中で、唯一真剣に取り組んでいたのが、友人と結成したフットサルチーム。
試合スケジュールの調整から、撮影した試合映像を観ながら分析まで、仲間とあれこれ考える時間が楽しくて仕方なかったのを覚えています。

なぜか「皆勤賞だから」という理由でキャプテンに任命されることになりました。
理由はともかく、仲間と一緒にチームを作り上げた経験は、高校生活の中でも自分が胸を張って言える大切な思い出です。

高校1年のある日、なんとなく将来について考えていた頃、
たまたま参加した美容専門学校の説明会で、「人と関わる仕事がしたい」と初めて強く感じました。
とはいえ当時の私の目には、「美容師=自由そう・カッコ良さそう・なんか楽そう」くらいのイメージ。
そんな軽めの憧れが、思いがけず人生を大きく動かす一歩になりました。

その日の夜、勢いのまま「美容の専門学校に行きたい」と母に伝えると、
「大学には行かないと思ってたし、手に職をつけるのはいいことだ」と、意外にもあっさり背中を押してくれました。
こうして私は、高校卒業後に東京の山野美容専門学校へ進学することに。

専門学校と同時に、人生初の一人暮らしもスタート。
「都会に住めばモテる」という謎の方程式を信じ、
渋谷の四畳半での生活を始めた私は、とにかくモテたくて髪型やファッションに全力でした。
雑誌のモデルを真似て、ヘアセットに時間をかけ、毎日気合いを入れていました。

おしゃれにはお金がかかる。そんな理由で、まかない付きの居酒屋でバイトを始めることに。
キッチン担当として覚えた「だし巻き卵」は、今でも得意料理のひとつです。

全力を尽くした結果、モテ期は来ませんでしたが(笑)、クラスメイトや担任の先生、友人たちに恵まれた二年間は、とても濃密でかけがえのない時間になりました。
今でも親交のある仲間ができたことは、私にとっての大きな財産です。

卒業が近づくころには、自然と「早く働いてみたい」と思うようになっていました。
振り返ってみると、美容師として人と関わることが、自分にとっていちばん自然な選択だったように思います。

修業時代

無事に国家試験に合格し、美容師としての一歩を踏み出しました。
社会人1年目、美容師としての基礎やマナーを一から学ぶ毎日でした。
当時の私は、とにかく「早く一人前になって、お客様の髪を切りたい!」という気持ちでいっぱいでした。

「簡単には辞めない」という自分への覚悟も込めて、同期の中で一番にハサミをローンで購入。
知識もなく、何を選べばいいのか分からなかったので、
先輩が紹介してくれたディーラーさんに「一番良いハサミをください!」と勢いで頼んで買ったのを、今でもはっきり覚えています。

次のサロンは、常連のお客様が多く、スタッフ同士も和やかで、とても働きやすい環境でした。
スタイリストを目指して、夜遅くまでカットモデルや練習に励む日々。
遅い時間でも付き合ってくれた先輩方には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

人と接する仕事を続ける中で、スタッフ同士のコミュニケーションの大切さや、お客様のために気を配る面白さにも気づき、
「美容師って、すごくいい仕事かもしれない」
そんなふうに思えるようになってきたのも、この頃からでした。

とにかく毎日が我武者羅。
誰よりも多くシャンプーに入ろう、カラーに入ろう、髪の毛一本も残さず掃除しよう。
そんな気持ちで、目の前のことに全力で向き合っていました。
トレーニングが辛く感じる日もありましたが、お客様から「ありがとう」や「またお願いね」と声をかけてもらえるようになり、それが何よりの励みになっていきました。

あるとき、スタイリストの先輩から、
「アシスタントのうちに、たくさん遊んで、いろんな人と関わって、人間力を磨け!」
そんなアドバイスを受けた私は、単純に「なるほど!」と即実行。
練習後にそのまま遊びに行き、寝ずに出勤する日もありました。
昔から遊ぶことが好きだった私は、それすら「これも練習のうち!」くらいに思っていたのです。

そんな日々を重ねるうちに、気づけば3年の月日が経ち、 ついにスタイリストへと昇格することができました。

スタイリスト時代

スタイリストに昇格し、初めてお客様の施術を最初から最後まで一人で担当するようになると、それまでとは違う責任とプレッシャーを感じるようになりました。
「本当に満足してもらえたのか」「もっとできることがあったんじゃないか」
一人ひとりの施術を振り返っては、反省と改善を繰り返す毎日でした。

そんな中、アシスタント時代から通ってくださっていた常連のお客様が、スタイリストデビュー初日に指名してくださいました。
施術後に「おめでとう」と声をかけてくださり、一緒に写真も撮ってくださって...。
その瞬間、心に張りつめていたプレッシャーがふっとやわらぎ、喜びで胸がいっぱいになったことを、今でも鮮明に覚えています。

その後も、多くのお客様を担当させていただきました。

高校生の頃から通ってくださっていたお客様の成人式ヘアを担当させていただいたり、
ご結婚前から来てくださっていたお客様が母となり、お子様と一緒に再びご来店くださったり。
美容師として、人生の節目に寄り添えることに、何よりのやりがいを感じていました。

「美容師になってよかったな」
そう思えることの積み重ねが、自分の中で大きな力になっていきました。

数年後、自身の結婚をきっかけに、
「もっと新しい環境で、自分の可能性を試してみたい」と思い、生活の拠点を福岡へ。
土地も人間関係もゼロからのスタートでしたが、お客様やスタッフに恵まれ、
やがて店長としてサロンを任せていただけるようになりました。

関東以外で生活したことのなかった私にとって、福岡での出会いや日々は、すべてが新鮮で刺激的。
価値観が広がり、視野が大きく開けていくのを感じていました。

スタイリストとしても再来率No.1をいただくなど、少しずつ手応えも得られるようになり
本当に多くの学びと気づきにあふれた時間でした。

その後、関東に戻ることとなり、アシスタント時代からお世話になっていたオーナー(師匠)から声をかけていただき、
スタイリストデビューした思い出の店舗で再びスタートを切ることに。
「いつか恩返しがしたい」と思っていた私にとって、それは原点回帰のような再出発でした。

ただ、再び慣れた環境に戻ったからこそ、自分の中にあるくすぶりにも気づくようになりました。
「このままでいいのだろうか」「本気で人のためになれているのか」「もっと熱く美容師という仕事と向き合いたい」
そんな思いが、日を追うごとに大きくなっていったのです。

そんな時、福岡時代にお世話になっていた方から「INTI」というサロンの存在を教えていただきました。

INTI時代

倉林 INTI時代

INTIに入社してから、
美容師という仕事には、想像以上の可能性があると日々実感するようになりました。

ご来店時には、目を合わせるのが難しそうだったお客様が
施術を終えたあと「本当にありがとうございました」と笑顔で帰っていく。
「美容室はあまり好きじゃないけれど、ここ(INTI)ならまた来たい」と言ってくださる方もいます。

そんな瞬間に立ち会うたびに、
今まで気づけなかった自分の存在価値を全身で実感するようになりました。
入社して数年が経った今でもこうした体験の一つひとつが私の原動力です。

「目の前のお客様の期待を、絶対に裏切らない」
その想いを胸にこれからも日々、技術と心を磨き続けていきます。

初めてご来店されるお客様は、 不安や緊張、そして半信半疑の気持ちを抱えていらっしゃるかもしれません。
それでも「ここに来てよかった」と心から思っていただけるように。
全力で心を込めて施術させていただきます。

倉林 INTI時代

INTIというこの舞台で私はこれからも

『ヘアデザインで人生を変える』

という信念を胸に すべてのお客様のこれからと本気で向き合っていきます。

美容師としての技術や経験はもちろん大切ですが、
INTIで過ごす中で人と本気で向き合うことの大切さをたくさん学びました。
お客様一人ひとりの人生に関われるこの仕事の重みとやりがいを日々感じています。

これからも目の前のお客様の言葉にならない想いにも気づける美容師でありたい。
そのために技術だけでなく、人としても成長し続けていきたいと思っています。

ここまでの気持ちになれたのは、INTIに出会えたから。
そんなINTIが私は大好きです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

何者でもない自分ですが、
いつか息子が「なんか親父、かっこよかったな」って思ってくれる日がくるように。
今日もできることをひとつずつ、まっすぐに、丁寧に重ねていきたいと思います。

INTI report - 倉林駿吉

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