スタッフ紹介
小澤 ゆかり

小澤 ゆかり
YUKARI OZAWA
ポジション | 薄毛Designer |
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血液型 | A型 |
趣味 | インテリア、ラーメン |
自分の悩み | 肌が弱い、すぐにお腹がすく、方向音痴 |
自分にキャッチ コピーをつけると |
食べることが生き甲斐 |
他のスタッフからの印象 | 全力 |
幼少時代

岐阜県岐阜市で生まれました。
小さな頃からとにかく食べることが大好きで、食べ物をくれる人にすぐに懐く子供でした。
今でも食いしん坊なところは変わらず、食べ物きっかけで心を開き打ち解けてしまう習性があります。
両親が共働きで、1歳を迎える前から保育所に預けられていました。保育所の先生の事をおやつをくれる大人として認識していたのか、親が送っていって離れる際も一度も泣いたことがなかったそうです。
母がお笑い好きで、物心ついた頃から土日のお昼は必ず家族でテレビの前に座り吉本新喜劇を見るのが恒例でした。
父は旅行とカメラが好きで、夏は毎年家族で旅行をし、たくさん写真を撮ってくれました。
物を作ることが好きで、チラシや新聞紙を使ってよく工作をしていました。何回か折り曲げた紙にハサミで図形を切りぬき、広げると線対称に模様ができているという遊びが大好きで、紙を折りひたすら切り抜いていた時期がありました。
数えきれない程の折り紙を消費しましたが、母はこの子の創造力を掻き立てるならと好きにやらせてくれていました。当時からハサミを使って形を作っていく事が好きだったのかもしれません。

家の中には本が天井まで一面高く並ぶ部屋がありました。当時そこが私の部屋としてあてがわれていたため、置いてある本は幼少期にほとんど読み尽くしていました。漢字や言葉はそこで自然に覚えていったように思います。
保育所に行くといつも戦隊ヒーローごっこに誘われて、男の子に混ざって外で戦いごっこをして走り回っていました。おままごとより戦隊ヒーローごっこの方が多く、毎日外で遊ぶ活発な子供でした。
人と同じが嫌で、小学校に上がる際には、当時まだ誰も使っていなかった赤以外のランドセルの色を選びこれにすると言って聞かず、親世代からは反対もありましたが自分の意志を貫き買ってもらいました。
結局1人だけ蛍光オレンジのよく目立つランドセルを6年間使いました。やりたい事を潰さないように伸ばしてくれた両親にはとても感謝しています。
学生時代

小学生の頃から髪の悩みがありました。
この頃は癖毛に悩んでおり、長くおろした髪は巻いたかと聞かれるほどうねっていました。
ストレートヘアをキープするスタイリング剤をお小遣いの範囲で探しては、買ってつけていました。買っては試してまた買って、トライアンドエラーの繰り返しでした。
中学生から髪型へのこだわりはさらに強くなり、カラーをして行ったり奇抜なカットにしてみたりして先生に怒られていました。
高校時代はアルバイトに情熱を注いでいました。通信制だったためみんなが学校に行っている間もアルバイトをしていました。
カフェが併設されたチョコレートの販売店や居酒屋、バル、姉妹店であったラーメン屋のヘルプなど色々経験しました。
高校時代のアルバイト先で忘れられない出来事があります。ワインを扱うバルのようなお店だったのですが、ご高齢のご夫婦に、こんな若い子にワインが分かるわけないと言われてしまいました。

一生懸命働いていた私にとって見た目の若さで評価されることは大変悔しく、やるせない気持ちになった事を覚えています。
しかしその気持ちを糧にして、店にあるワインを勉強し、若いことを理由にされない様な落ち着きや言葉遣いを意識して自分の接客を磨くことに専念しました。
すると後日そのご夫婦から、席には他のスタッフではなく私が来るようにと言っていただけるようになり、次第に頼っていただけるようになりました。涙が出るほど嬉しい出来事でした。
この出来事は今でも私の接客に対する思いの根底にある大切な経験です。
17歳の時にはカナダへ約半年間留学し、思春期で周りに迷惑をかけていた自分自身と向き合う期間となり、親や周りの人との関わり方や考え方も変わりました。
大学進学を機に上京しました。ヘアカタログの撮影に呼んでもらったり、美容師のヘアショーのモデルをさせてもらったりして、ひと通りの色や髪型をしました。ヘアメイクや、カットやカラーでいつもと違う自分に出会えた時、美容師ってすごい!という気持ちを持ち始めました。
しかしこの時はまだ、自分が美容師になる気持ちはありませんでした。ただ、接する機会が多い美容師という職業が身近な存在になっていきました。
修業時代

4年ほど別の仕事をしていましたが、世の中の移り変わりや自身の変化を考えた時に、雇われている環境に依存せず自分自身の中に変わらない強みを身につけたいと考えるようになりました。
そこで考えたのが手に職をつけること、その中でも身近にあった美容師という職業でした。
その時に出会ったのが、当時関西エリアには1店舗だったインティ大阪本町でした。
多くの美容室が淘汰されていく現状を知っていた中で、他にないインティの技術、専門性は突出していて、この先も続いていく会社だと思い入社を決めました。
東京での正社員を辞め、一度岐阜の実家に戻っていましたが、大阪に転居し、インティに入るにあたって最初は床掃きや物の準備から始まり、美容師として必要な技術を毎朝毎晩レッスンしました。
合間を縫って薄毛についての知識も勉強しました。
正社員になる前は勤務でない日も店に来てウィッグでカットの練習をしました。
時間を忘れて練習に没頭することや、ほぼ一日練習をしていることもありました。美容師の職業訓練校に通いながらの技術取得で、当時休みはほぼありませんでしたが、1日も早く技術を身に付けたくて常に目の前のことに一生懸命でした。
真面目に練習した結果、職業訓練校では2年間の総合成績1位として頂き、大阪府知事賞も頂きました。
それと並行してインティのカリキュラムにも段々と合格することができ、見習いの入社から2年半の月日を経て、訓練校の卒業と同時にインティの正社員として採用が決まりました。

私はもともと器用であったり才能があるほうではないと思っていますが、腐らず愚直に努力を重ねる事で身になったものがあると感じています。
お客様へのカットがまだできない頃は、自分にできる精一杯の技術としてシャンプーマッサージを研究し、休みの度に色々なマッサージやヘッドスパのお店に客として勉強に行きました。
中途スタイリストの先輩が殆どのインティで、生え抜きだった私は、当時すでにカットができる先輩たちと違って今自分にできることはこれしかないんだと、自分の持てる技術を精一杯やろうと、毎回、毎回心を込めて一生懸命マッサージをさせていただきました。
シャンプーマッサージを通して沢山のお客様と関わらせていただき、今までで1番気持ちよかった!と言っていただいたり、首もほぐれて肩まで楽になった!と言っていただくこともあり、そんなお声が当時私の1番の喜びでした。
INTI時代
当時大阪でアシスタントとして過ごす中で、関東エリアでの3ヶ月の研修がありました。
代表宮本の専属アシスタントとして3ヶ月の研修を通して、代表のそばでもっと働きたい、スタイリストデビューにあたってインティの薄毛カットの技術を代表から直接教わる機会が欲しいという思いが強くなりました。
その思いを代表に伝えたところ、5ヶ月後に関東への異動を叶えて頂き、その年の11月から関東エリアへの配属となりました。
そしてその後も代表の宮本や関東圏のスタッフのもとでアシスタントにつきながら練習を続け、カットカリキュラムを全て終えてデビューが決まりました。
お客様をカットさせていただくようになってからは毎日が感動の連続でした。
担当させていただいたお客様からお礼を言っていただいたり、また次もお願いしたいです。と言っていただけた時、今まで練習してきたものが全て報われた気持ちになり自然と涙が出ました。
アシスタント時代には悔し涙だったものがデザイナーになり、嬉し涙に変わりました。
それ程、今までやってきたことが報われる想いになる瞬間が多くありました。
インティで毎日お客様の髪を切らせていただいて、技術には終わりがない事を実感する日々です。今後もお客様に感動していただける技術、接客を提供できるよう引き続き学び続けます。
私に髪を任せて下さる皆様、いつも本当にありがとうございます。お客様に支えられて今の私があります。指名をしてくださったり、温かいお声掛けをいただいたりと、日々幸せな気持ちをいただき支えていただいています。
お陰様で、美容師になって良かったと毎日思っています。本当にありがとうございます。
お客様の毎日が、ヘアスタイルを通してより良いものとなるよう、今後も日々技術向上に励んでまいります。
今後とも宜しくお願いいたします。
長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
お店にて、お待ちしております。
インティ 小澤でした。